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◆最高裁判所裁判官の国民審査

◆最高裁判所裁判官の国民審査

 先日、最高裁判所裁判官の国民審査の新聞記事をFBで引用したら、削除された。私に書いた記事ではない、新聞記事をである。これには驚きだった。
 いつも思うが、衆議院選挙と同時に実施される最高裁判所裁判官の国民審査は、選挙のたびに行われる重要な制度ですが、その注目度は低いです。
 公報で配布される裁判官の経歴や簡単な情報をもとに、国民は信任・不信任を判断することになりますが、実際にどれだけの人がしっかりと審査を行っているか疑問です。

 そんなこともあり、最高裁判所裁判官の国民審査の仕組みを変えるたらどうなるんだろうか?と考えてしまいます。

 現行の国民審査では、裁判官を「〇」で信任、「☓」で不信任としますが、何も書かないと信任とみなされる仕組みです。
 しかし、この「何も書かない=信任」というルールには改善の余地があると考えます。
 何も書かないことを不信任と見なす仕組みに変更すれば、国民、裁判所、そしてメディアにどのような影響を与えるのかを考えてみました。
 現在の国民審査では、裁判官が罷免された例は一度もありません。
この理由の一つは、審査に対する国民の関心が低いこと、そしてもう一つは何も書かないことが自動的に信任とされる仕組みでしょう。
これでは、審査を真剣に行う必要が薄くなり、結果として罷免の可能性がほぼゼロになっているのです。
 もし、何も書かないことが「不信任」として扱われるようになれば、国民の意識は大きく変わるでしょう。
 自分の投票行動が裁判官の進退に直接影響を与えることを実感し、審査に対する関心が高まることが期待されます。国民審査という制度が、単なる形式的なものではなく、実際に国民の意思が反映される場として認識されるようになるでしょう。
 また、審査に対して積極的に「信任」か「不信任」を付ける必要が生じるため、国民は裁判官の経歴やこれまでの判決について調べる意識が高まるでしょう。これにより、司法制度への理解と関与が深まり、民主的なプロセスがより強化されると考えられます。
 次に、制度変更が裁判所や裁判官に与える影響についてですが、現行の国民審査では、裁判官は国民による罷免のリスクがほとんどないため、職務に対して緊張感を感じにくい状況です。罷免される可能性が極めて低いため、裁判官は国民審査をあまり意識せずに職務を続けられるのが現状です。
 しかし、何も書かないことが不信任扱いとなれば、裁判官は自らの判断や行動がより厳しく国民に評価されることを強く意識するようになるでしょう。この変化により、裁判官はより公正で透明性のある判断を行うことが期待されます。また、裁判官自身も、自分が行った判決が国民にどのように評価されているのかに敏感になり、自己研鑽や責任感を高める動機づけとなるでしょう。
 裁判所も広報に動くと思います。
 さらに、裁判官の仕事に対する国民の関心が高まることで、裁判所全体の運営にも良い影響を与え、結果として司法制度の信頼性向上につながると考えられます。
 メディアの意識も、制度変更により大きく変わることが予想されます。
現状では、国民審査は選挙と同時に行われるものの、メディアの報道は選挙結果や政党の動向に集中し、審査に関する詳細な報道はあまり見られません。
 しかし、何も書かないことが不信任として扱われるようになれば、裁判官の罷免が現実的に起こりうる状況となり、メディアの関心が大きく変わるでしょう。メディアは、裁判官の過去の判例や行動について積極的に報道し、国民が信任・不信任を判断するための情報提供を強化するようになると考えられます。
 これにより、国民はより多くの情報を基に裁判官審査に臨むことができ、結果的に審査の透明性が向上するでしょう。メディアが裁判官審査に対する報道を強化すれば、国民全体の関心も高まり、司法制度の透明性と信頼性が高まる効果が期待されます。
「何も書かない=不信任」とする国民審査のルール変更は、国民、裁判所、メディアに大きな影響を与えると考えられます。国民は自らの投票行動が裁判官の進退に直接影響を与えることを強く意識し、審査に対する関心が高まるでしょう。裁判官は国民の評価をより意識し、公正で透明な判断を行うことが期待されます。また、メディアは審査に関する情報提供を強化し、国民がより informed(情報に基づいた)判断を下せるようになるでしょう。
 このように、制度変更により国民審査がより実質的な意味を持つ制度となれば、日本の司法制度においても大きな改善が期待されます。今後、国民一人ひとりが裁判官審査に対して主体的に関わることができるよう、制度の見直しがあってもいいのではないでしょうか?

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